2018年4月5日木曜日

東日本大震災チャリティーコンサートのお知らせ

今年で8回目を迎える東日本大震災チャリティーコンサートが私が司牧をあずかっている日本福音ルーテル下関教会を会場にして開催されます。

すっかりメディアでは東日本大震災について報じられませんが、未だに悩みのなか、苦しみの中に在る方々がたくさんいらっしゃいます。
仮設から復興住宅への転居で新たな問題が起こっていることなど、新しい問題も生まれています。
遠く離れていてもできることを精一杯できればと願っています。

ぜひ多くの方にご来場いただければと思っています。

ご案内 下の文字をクリックすれば見られます。
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2018年1月11日木曜日

ハタチの君へ

成人の日を迎えましたが、ハタチを迎えた皆さん成人おめでとう!

私はもう12年前の事。ということは今年の新成人は丑年️!そりゃ私と干支が一回りも違えば私もおっさんだわと感慨と哀愁を感じておりました。

何がめでたいのかとふと考えてみると「めでたい」ってのは愛でても仕切れないという意味があるわけなので、そういう意味を込めるならば、ハタチを迎えたみんなの存在そのものが神様にとって、とても愛おしいなのだから「めでたい」のだとふと考えてみたりします。

まぁ講釈は良いとして、ひとつハタチを迎えたみんなにみ言葉を贈ります。

エフェソの信徒への手紙5章 17節
「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

「無分別」とは口語訳だと「愚か」と訳されています。では何が愚かなのか。
それは全体を俯瞰しないで短絡的に、その場の雰囲気や見えてるモノにしか目を向けずに生きてしまうことだと思います。
一方で神様の視点は、初めから終わりまでを俯瞰し、見通しておられます。そして、その人、その時に相応しい恵みをくださっています。

この文書をたまたま読んだみんなはそんな神様の視点、御心、恵みを色々な事がらがあるのだということを知らされた一人です。
どうぞこれからの人生「主の御心が何であるか」という事を大切にして歩いて行ってください。
今、ここに働く神様の御心は何なのか、そしてそれはこれまでと、これからにどのように作用するのか、その中で私はどうあったら良いのか、周りの人がどうあれれば良いのか。
考えることは沢山あります。
これまではオトナが守っていてくれたこと、目をつぶっていてくれたことも、そうでなくなります。
熟慮しながら、そして何よりも神様に聴く心を持って過ごしてほしいなと願っています。
もちろんこれからハタチを迎える十代の人も、既にオトナのみんなにも言える事と思います。

改めて新成人神様の祝福が豊かにありますように!

2017年12月22日金曜日

働きは何か

牧師の働きは様々あるし、一人ひとりに神様が与えてくださっている働きがあると思っています。だから10人いれば10通りの働きがそれぞれに与えられています。
それは牧師に限らずすべての人に言えることで、一人ひとりがそれぞれに神様から与えられている働きがあります。
人はそれを影響力があると賞賛するし、その逆もあり得る。けれども、本当にその物差しは正しいのだろうかと思うのです。
わたしはそう思いません。

神様はその人にそれぞれの力に応じて、神様からの賜物を与えてくださりながら、一人ひとりが大切な神様の働き人としてくださっているからです。
マタイによる福音書25章15節に
それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」
と記されている通りです。
それを人は杓子定規な考え方で偉大だともてはやしたり、つまらないと吐いて捨てます。
しかし、一つの家族の母として生涯を送ることも、一国の宰相として勤めあげることも、神様の目には貴く大切な働きなのです。

そして何よりも忘れてはならないのは、私たちが与えられているすべての事がらが「それぞれの力に応じて神様の財産を預けられた」ものであるということを忘れてはならないということです。
近頃の人たち(特に政治に関わる人たち)はそれを甚だ逸脱して忘れてはいまいか。
政治家とは、国民によって選ばれた代表のはずです。その国民を置き去りにして、自分が有している権力を振りかざして、おざなりな発言を繰り返し、なおざりな働きをしているようにしか思えないのです。
そして、それは社会全体にも浸透しているように思います。

キリスト教だからそういう考え方をするのだということではありません。そうでなくとも、自分が与えられている能力や、人脈、働きを自分の所有物だからと言って勝手気ままに自分の幸福のために使うことの愚かさを心に留めてほしいと思います。
それは本当の自由ではありません。
本当の自由とは、自分に与えられたすべてをもって他者を生かすことです。

イエス様はその模範です。ご自身のみ力を決して自分の満足のために用いませんでした。
腹を空かした人のために、病を抱える人のために、悲しみ、嘆いている人のために、涙を流している人のために、怒る人のために、驕り高ぶる人のためにご自身の力、命を用いました。

ですから働きとは何かというならば、それぞれに与えられた働きを通して他者を生かすことです。その模範であるイエス様がお生まれになるクリスマスを間もなく迎えます。
自戒を込めて最後に皆さんにお伝えしたいことは、なぜイエス様がこの世にお生まれになったのかお一人おひとりがご自身に問いかけ、自分に与えられている働きは何か、そしてそれを本当に他者のために用いているか自問してみてくださればと思います。



2017年1月19日木曜日

まずは準備から

何事も準備が肝心だ。
夢を語ることも大切だが、それを夢のままにするのか、それとも・・・?
私が司牧をしている教会では、昨年から「こども食堂」を立ち上げようと持ち掛けている。
そのためには、やはり先に書いているように様々に準備が必要だ。

昨年からもいろいろと調べたりしていたが、それじゃ埒が明かないし、いまいち実態を把握できない。
そこで、今日カトリック彦島教会で開催された一致祈祷集会に出席した際に聞いた耳より情報。「去年、生野で立ち上げた人が居る」
さっそくスマホで調べたら、昨年の7月に山口新聞に掲載されていた。
代表者の方の電話番号まで掲載されていたので、帰って総会資料印刷をして、ひと段落ついたところで電話してみた。
話を聞けば、聞くほどに必要な働きであることを実感する。
ぜひ実現させたいと改めて思いを強くしたし、神様からそんな使命を下関教会に与えられているように感じた。

全ての人のうちにイエス様が宿られている。
そうであるならば、私たちは私たちの信仰を守ることも大切だが、世の方のうちにもイエス様の姿を見出す。そうであれば、その方々に仕えていく。これは至極自然の事のように思う。
さぁどうなるか?
そのためにもしっかりと準備を進め、少しでも良い状態で立ち上げに向けて歩んでいきたい。

2015年9月10日木曜日

100周年記念の準備にあたる中で

私が牧会を任されているルーテル下関教会は、今年で宣教100周年を迎えます。
もともとは、門司にあるルーテル門司教会の講義所として始まった小さな群れが、教会となり、戦災による会堂消失、幼稚園の閉鎖などの困難を乗り越えながら、100年の時を刻んできたのです。

私は新任でこの教会に遣わされてきましたから、はじめ何故わたしのような新任牧師にこんな大切な節目の時を任せるのか!?などと心の中ではごねていました。
しかしながら、準備にあたる中で、一つのことを思い出しました。
それは、私が牧師への献身の道を開いてくださったみ言葉です。

1:7しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。 8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。 」(エレミヤ書1章7節、8節)

わたしたちは、様々なことを通して恐れを抱きます。
自分に自信が無かったり、力及ばないと思うとそれは益々大きくなって心身を飲み込もうとします。
しかしながら、神様は預言者としてあなたを召し出したと告げられ、恐れおののくエレミヤに対して、「恐れるな」と告げます。
なぜならば、神様は共に居てくださるからです。

そして、同時に「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。」(申命記1章29節、30節)とおっしゃってくださっているように、恐れおののく私たちのために神様は戦ってくださり、この恐れを取り除いてくださるのです。

私は、この記念事業を準備する中で改めてこの神様の姿に気づかされました。
今も恐れはあります。本当にこれでよいのか、本当に私なんかが適当なのかと様々に思いめぐらします。けれども、この教会のために先頭に立ち働いてくださったのは、神様ご自身です。
そして、その神様に信頼して多くの人々の働きが成り、この方々によって100年の歩みが刻まれてきたのだと確信するに至りました。
だから、私もこの下関教会の信仰の先達に倣って、神様が先立って良い方向へと導いてくださっていると神様を信頼していこうと思うのです。

100年は、ハッキリ言ってしまうならば通過点です。これからも下関教会は、時を刻み続けます。
しかしながら、主が先立つ、主が共に居るということをいつも覚えながら、主に信頼して歩み続ける教会であるように牧師としてしっかりと働いていきたいと今は考えています。




2015年7月31日金曜日

徒然

たぶん戦争をしたいと思っている人は殆ど居ないと思うのです。
いろんなしがらみに囚われると利権とか、利益とかを考えちゃうから変な流れに乗って、本来の欲求とは違う方向が正しいと頑なにを考えてしまうのだろうと思うのです。

個人的には、たしかに戦争や、攻撃される可能性があるわけですから、どうにか守っていく必要はあると思いますが、今回の安保法案には反対です。A国の言いなりだとか、C国さんが脅威だとか、K国がミサイル向けてるとか色んな意見がありますが、そもそも憲法解釈が違憲だという意見があるのにそれが無視されてしまった事が腑に落ちないからです。

さて、平和って一言に言っても三者三様です。
僕なりに考える平和は、相手を受け入れる事に尽きると思うのです。
それは、相手を心から思って、相手が本当に望んでいる声を聴き取るっていう途方もなく、面倒で、難解で、困難なことだろうと思います。
でもね、僕は一人のキリスト者としてこれを実現したいなぁって心から願っています。

ミカ書4:3〜5
3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。4人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。

ミカ書の有名な箇所です。
ミカの時代、イスラエルは、神様の背信の故に、神様によって他国を攻め上がらせて、国の存続が危ぶまれました。実際、北イスラエルは滅ぼされてしまいました。

でも、神様の裁きは滅びで終わりませんでした。
争いの後、ことごとく武器は平和の道具に変えられたと記されているように、平和が必ず訪れると預言しています。

さらに言うならこれは独善的な平和ではありません。
「5どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。」
互いに認め合い、共に生きていくということです。
僕はキリスト者ですけど、神社を拝んでも、仏さんを拝んでも、ヒンドゥーでも、ムスリムでも良いと思うのです。
ただそれをキリストこそ正しいと頭ごなしに否定するのではなく、互いに相手を思うこと、先にも書いたように相手の声を聴き取ることが平和への遠道のように見えて、何よりも近道だと思うのです。

だからこそ、根気よく議論を続ける事、反対であっても賛成の方々の意見にも耳を傾けていかなければならないのではないかと最近思い始めています。
だから無理して結論を出す事もないように思います。

今の政治家の人たちは、なんだかそこが欠けているように思うのです。
互いに相手の声に聴くことなくいってしまっているように思います。

今度の主日の説教考えながらこんな事を思った次第です。

※写真は我が家の平和の象徴です。

2015年1月29日木曜日

神の言のあるところに喜びがある

私が牧会に遣わされている日本福音ルーテル下関教会は、今年宣教100周年を迎える。
その大事な一年のための総会となった。
前々から述べているが、教会には30代、40代の方々が世代分布的にも抜け落ちている。
一番仕事の忙しい時であり、なかなか教会に繋がらないというのが現状であろうし、忙しさの中で心の安らぎを求めていたり、何か生活の芯のようなものを求めているとは思うが、それを教会に見出していないのだろう。

しかしながら、神の福音は、すべての人々に宣べ伝えなければならない。
イエス・キリストが復活し、昇天の直前に弟子たちに
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
と伝えている。いわゆる、イエス・キリストの大宣教命令と言われている箇所である。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束は、言い変えるならば「わたしの言葉(福音)は、世の終わりまで共にある」ということではないだろうか。
そして、この神の言があるところには、主イエスの受肉の出来事によってこの世に顕れてくださった喜びがあり、神が人間と共に生き、私たちの悔い改めと救いに対して、天で喜びが満ち溢れ、主イエスの復活と昇天の出来事によって弟子たちに喜びと、情熱を燃え立たせた。
つまり、神の言のあるところにはいつも喜びがあるのだ。
まさに主イエスが「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ15:11)と語っている通りである。

教会に集う50代以上の方々は、どれほどこの神の言から与えられる喜びを下の世代に伝えているだろうか。
翻ってわたし自身もこの喜びを伝えられているだろうか。
ともすれば、御ことばを取り継ぎ語るのは、牧師であると、専売特許のように言われる。
もちろん、正しく聖礼典が行われと御ことばが取り継がれることは何よりも大切であるが、あまりにもそれを牧師に押し付けていやしないか。
宣教について与えられている使命は、すべてのキリスト者に対してである。
聖書に書かれているということは、それが特定の者に対するイエスの命令ではなく、私たち一人ひとりに与えらえている召しであり、使命である。

この使命を一人ひとりが担い、神の言のあるところに喜びがあるのだということを宣べ伝えていかなければ、教会は、衰退していくだけである。
何か方法があるとか無いとかではなく、一人ひとりがこの神の言によって与えられた喜びを体現していくことが、教会の方策や施策に寄らずとも、キリストとの出会いが多くの人に与えられる宣教となるのではないだろうか。

批判的にとらえているように見えるが、そうではない。
これは一種の自分への戒めでもある。やはり私自身も牧会者として立たされ、神の言の喜びを体現し、それを伝えているかということを問われているのだと思う。
2015年4月で牧師生活4年目に入る。
そのような若輩者に、100周年という大きな出来事を迎える教会へと遣わされた意味を今一度、深沈し、神の御旨に思いをよせて歩んでいきたいと思う。